私と2017年10月10日

2017年10月9日6:00~10日7:00にかけた24h弱の1日は、
わたしの今までの人生の中で最も忘れられない日になっただろう。

あなたにはそんな日がありますか。

 

 

10日の4日後くらいに書きなぐってしまったので見づらい部分もあると思いますが、

またそのうち書きなおすかもう1個記事書くと思います。

 

【10月に帰省するか、しないか】

今年の8月のお盆に一度コミケという名の元に帰省をしていたのだが、今回UBIDAY※のためにまた帰省をする事を決意した。

UBISOFTというゲーム会社の公式イベント。その会社のゲームの新作が遊べたり、大会があったり、コスプレがあったり。

7月の時点では、「どうせ冬(年末)また帰る(冬コミをサークル参加で申し込んでいる)し、落ちても行くし、UBIDAYのためだけにまた10月に帰るのはな・・・」と思っていました。

実際、航空券や交通費は馬鹿になりません。ただ、8月の夏コミで出会った友人が「UBIDAY来てくださいよぉ~~」や「コスプレコンテスト出るとシャツ貰えるよ~~」と勧めてきてくれて、やらない後悔よりはやる後悔を選びたいので、参加を決意する。

 

航空券を取って母に連絡すると、母親からは「またアンタ来るの!?え、旦那はまた宮崎に置いてく!?大丈夫!?!?うまくやってる!?!?」と心配される。

 

UBIDAYに向けてコスプレ制作したりするから、原稿を早めにやっておこうとUBIDAYまでに1冊をほぼ完成までもっていきました。コスプレ衣装作りながら原稿やるってバカじゃないの?って思ってましたが、意外となんとかなりました。お金も嵩むけど、ソシャゲに突っ込むよりはいいかなぁと旦那も応援してくれました。

 

そんな、苦渋の決断の先、

私は10月7日に東京に帰った。

 

【10月7日(土)】

今夏と同じように、私は旦那を宮崎に置いて東京へ1人で帰省した。

お土産はもう買わなくていいか、折角だからいつもお世話になってる二人の友人と丁度10月10日にお誕生日を迎える友人に簡単な物を買っていった。

 

10月7日、夕方の便で18時半に東京について、八王子帰る頃には21時くらい。

八王子から実家まではまた遠くて、予め連絡するといつも母が車で迎えに来てくれていた。

いつも通り、母から連絡がくる。

「〇〇ちゃん(兄貴夫婦の子供)みたり、ばあちゃん世話したりもう大変。駅にはお父さんが迎えにくるよ」

8月もそんな感じだったから分かってたけど、

おばあちゃんの容態が8月よりもとても悪くなっていたのは予想外だった。

 

お父さんと世話話しながら家に帰ってご飯を食べていると、すぐにおばあちゃんの話になる。

「最近ばあちゃんがここ1週間で一気にきちゃってね、全然動けなくなっちゃったの。先週までなんも無かったのよ?」

母親の表情は、完全に”介護疲れしてる人”の顔になっていた。

介護職に従事したことのある私に、

「もう私も腰が痛くて痛くて。なんかいい方法ない?」

と母は色々聞いてくる。

 

ベッドの高さが高すぎる、風呂をもっとちゃんといれる、デイサービスからでいいから、ちょっと外に出さないとこのままじゃ何もできなくなる・・・

 

それなりに叩き込んだ知識をそのまま母に伝えて、これからのおばあちゃんの介護の予定みたいなのを立て切っていた。

取り合えず連休明けの10月10日に病院連れていこう、と。この時から決めていた。

 

一通り母と業務的な事柄を話し終わった後、私は落ち着いておばあちゃんと話してみたんだ。

 

8月の時はね、

「〇〇ちゃん?ああ、孫の〇〇ちゃんね」

と忘れてても思い出してくれてたんだけど・・・

 

 

今。

 

「おばあちゃん、わかる?〇〇〇だよ、覚えてる??」

 

顔の位置を合わせるために、腰を折って、手を握りながら、ゆっくり、大きくしゃべる。

もぞ、もぞ、と口を動かすだけで上手く聞き取れない。

耳を近づけてみると、

「箪笥の洋服を・・・」

と。

「もう、分かんないか・・・。そうだね、そっか」

この時点で少し泣きたかった。

 

だから、Twitterでこう呟いたんだ、

 

絶対に後悔しないぞ、と。

この時旦那に、一応LINEしたんだ、

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 ってね。

 明日は久々に旧友に会えるから楽しみだからって、4時間くらいしか寝てなかった。

 

【10月8日(日)】

8日は大学の旧友や兄夫婦とゆっくり過ごしていました。

おばあちゃんの容態は変わらず。

兄ちゃんは相変わらず義姉を困らせていたし甥っ子のソシャゲの課金問題がうんちゃら~。

父から、なぜかこの日に「葬式は私にやってほしい」と話していた。

わかったわかった!私は明日の準備が終わらないんだ~~!と寝たのは3時くらいでした。

 

【10月9日(月)】

最近で一番楽しかった、体育の日だった。

私は5時くらいに起きて6時の電車に乗り、

楽しみだったイベントに参加する。

www.ubisoft.co.jp

 思ったより緊張して、用意していた名刺が渡せなかったり、無線機ぶっこわしたり(これは2回目だけど)、コスプレ用に作っていた物がぶっこわれたり(ショックワイヤーがエレベーターで全壊した)、完全にキャパオーバーでした。

 

イベントにコスプレで参加することが初めてな上に、

慣れている人でもコミケよりキツかった」と言われる会場。

※会場もぎゅうぎゅう詰めでした。

 

私も私でこんな10月にこんな汗かくとは思っていなくてトイレで吐きそうになるほどの脱水症状に陥りました。(女子トイレでずっと吐こうとしていたバンディットは私です。

本当に頭痛くて、気持ち悪いわ、お茶なくなりそうだわ、コスコン辞退しようか迷ってたんですけど、やっぱりここまで来たからには後悔しないようにやりきろうとやりきりました。(周りに合わせてずっと立ってたら倒れてたと思う。13時~15時の2時間ずっと座ってました。)

 

10月10日にお誕生日を迎える友人にもちゃんと、お土産を渡せた。

ご成人おめでとうございますって成人式に使う言葉だから誕生日に使う言葉じゃないです。初めて知りましたごめんなさい。

この10日が誕生日の人に9日に会ったのもきっとなんかの縁だったんだろうなと思う。

 

グロッキーになりながらも私はついにコスコンに出る

(本当に死にそうな顔をしているアーカイブスはコチラ。司会者さんのフリに対しては色々と言いたい事があるが割愛)

youtu.be

 

www.4gamer.net

コスコンに出るだけ出れて、FF14でめっちゃお世話になってる(色んな意味で)4亀さんに載れてよかったです。

補足:私は元々「折角衣装作ったし、私も作りましたよ」という気持ちで参加していたので、「コスコン優勝するぞ」というよりは「参加してみたい」という気持ちが大きかったです。シークレットゲストである、加齢た声さんもおっしゃっていましたが、それぞれみんな違ってみんな良いだと思います。これはイラストでもコスプレでも私の考え方は変わりません。似ていない似てるではなく、私は愛がある人の作品が大好きです。

 

そのあと、いつもお世話になってるお二人と飲んで「あの司会者ァ~~~~」「旦那からのLINEが怖いんですけどw自分が言うのもなんですけど愛妻家なんですよw」とか完全に酔っぱらいテンションで言いながら塩昆布をしゃぶってました。

この時の塩昆布が本当に美味しかった。OS1もってきておけばよかったよ・・・!脱水症状には気を付けよう!(注意喚起)

 

居酒屋でイラスト交換したり、程よく酔って、渋谷からいつも通り京王線で八王子へ帰った。

 

ようやく八王子に帰ったあたり、喉に違和感を感じていた。

どうやら、私は風邪を引いたらしい。鼻水も止まらない。

人混みはあまり好きじゃないし、脱水症状だったから仕方ないか・・・。

 

【10月10日(火)0時】

コスプレの衣装は汗まみれだけど、お母さんはおばあちゃんの介護で大変そうだし、自分で宮崎に帰ってから洗濯しよう。コスプレ参加賞のTシャツ(記念になって、とっても嬉しかった)も一緒に丁寧に段ボールに包み込んだ。配送は集荷して貰えれば家で出来るし、申し訳ないけど頼もう・・・。

明日の便も確認したし、昼まで寝ようと思ってたけど、おばあちゃんを病院に連れて行くのにお母さん一人じゃ大変だし手伝おう、10時くらいに起きればいいかな・・・?

 

そして目を瞑った数時間後だった。

 

2時50分。

私は疲れと風邪からぐっすりと寝ていたけど、

お母さんが今まで聞いたことのない声色で私を起こしにきていた。

「〇〇ちゃん、起きて。おばあちゃんおかしいの、早く来て、下にいるから」

あまりにお母さんが焦ってたから、私も焦って起きるけど、いつもの低血圧で若干フラフラ。眼鏡だけ取り合えずかけて、髪の毛も結ばずにおばあちゃんの部屋に駆け込む。

連休明けだから、父も兄夫婦も帰ってしまって、家にいるのは母親と、私と、一番上の兄貴だけだった。一番上の兄貴はちょっと訳が色々とあって、あまり頼れないから実質母と私の2人だけだった。

 

「救急車呼んだほうがいい?」

 

母は冷静な判断が出来なく動転していた。

冷静に私で確認した。体は暖かいのに手足の先が異様に冷たくて、脈もうんともしない、頬を口元にあてても息がなかった。

「呼んで、早く」

風邪気味でただでさえ低かった私の声は、さらに事態がマズイと気づいて低くなる。

すぐに母親に119番通報させた。

そのあと出来る事をやっていた。

体位を変えて、肩辺りを強くたたいて、

「おばあちゃん、おばあちゃん」

と大きく呼びかけても返答はなく。

私はこっそり、抱き締めたんだ。

まだ、暖かかった。

 

病院に行く準備が整った後に母が祖母の部屋に戻ってくる。

私は知っていた。

緊急病棟で一人で医者を待つ時の虚しさを。

「救急車乗ろうか?一人じゃ・・・色々きついでしょう」

「お願い」

急いで着替えた。

本当は私が車で追いかけてあげればよかったんだけど、年齢的に自賠責対象外だったので安全にタクシーで帰る事を決めた。

人生で3回目の救急車だったけど、救急隊が着くまでにかかった時間はいつもより長く感じた。あと、言える事は仕事で2回乗った横浜市の救急隊よりも対応が丁寧だった。

 

救急隊が着いた否や、心肺蘇生しながら説明されるのは、

「脈もない、息も無い、ここから出来る事は、取り合えず病院には行きますけど、延命処置か死亡確認だけです。」

もうちょっとこう、処置かなんかあるのかと思いきや、いきなりそういう話になったのが驚きだった。

 

私の家では、決めていた。

”若い人だったら延命処置するけど、寿命なら延命処置は絶対にしない”と。

「いいよね」

母はしっかりした表情で私に向かって問いかけた。

父でも長男でもない、末の娘にその返答を求めるのは正直重たすぎた。

でも、家族で前もって決めていた事だし、私は声も出さず、母の顔も見ず、頷いた。

 

そのあと、本当に救急隊が言うように、病院に着いてもやることは死亡確認だけだった。

「3時36分、死亡を確認いたしました。」

看護師や医者がおそらく”いつも通り”にしていた。

それは初めて見る場面だった。

申し訳ないなんて思う理由なんてないんだけど、

何故かその時、肩身が狭く感じた。

さっきまで暖かかったのに、こんなにも簡単に人は死んでしまうんだ。

今も触れば仄かに暖かいんだろうけど、さすがに触れない。

死亡確認されたあとは「涙が出る」というより、「息が詰まり」そうだった。

しばらく母の顔を見て話せなかった。

 

その次に突き付けられる現実は、

「ご自宅で亡くなられたので警察の方がこれから来られますので、すみませんがもう少々お待ちください」

警察だった。

 

病院の霊安室も初めて来た。地下の”B”を長押ししないとエレベーターは下がらなかった。

霊安室は寒くて、私も風邪引いていたのもあって鼻水がずっと出た。吸っても出してもたらたらたらたらと。

 

気を利かせた黒い服の葬儀屋が母と私の椅子を用意してくれた。

「ご愁傷様でした・・・私、---の、---と申します―」

祖父の葬儀の時と同じ葬儀屋さんだったから、すぐお願いすることにした。

「基本的に警察の方とウチは並行して動くので、少々お待ちください。」

葬儀屋と警察が色々と話してる間に、私たちも”3人”で話していた。

 

「ようやくおじいちゃんの処に逝けたね」

母は祖母の顔に被っている白い布を少しズラして、おばあちゃんに語り掛けていた。

祖父は2005年頃に既に亡くなっている。それから12年間、祖母は私と母と一緒に過ごしていた。確かに、長かった。

「12年?頑張った方じゃないの、そんなに長く生きれないよ普通。」

介護していた時に、”後追い”が何件かあったから、そう返した。

そんなの人によるけど、会話を合わせてしまった。

「そうだね・・・あんなに”早く死にたい”早く死にたい”って言ってたしね」

「早く死にたい」そんな言葉を祖母の口から何回も聞いていたが、本当にこの日が来るとは思って無かった。きっとどの家庭でも、こんな時、こういう会話をしてるんだろう。

 

「連休待たなきゃ、良かったかな。もうちょっと生きれたかな」

母は後悔していた。

「どうかな・・・」

話したいけど、葬儀屋と警察が話の合間に来てしまい長く話せず、そんなやり取りが2時間3時間が経っていた。

 

警察と一緒に自宅に戻るころには完全に朝になっていた。

 

母が祖母の部屋を綺麗にしていたのと、ケアマネージャーの介入などをしていたので証明には時間はそこまでかからなかった。ただ警察側から引っかかったのは、「丁度娘が帰省したタイミング」と「延命措置に対しての即答」だそうだ。

 

私は逆にこのタイミングで帰ってこれて良かったと思ってるのに、だめですか、そうですか。

家族で決めてた事でもちゃんと迷わないとだめですか、そうですか。

 

皮肉を自分の中で呟きながら、

外を眺めていると、

(警察が来てるから家のドアを開けっぱなしにしていた)

向かいの子供が登校し始めていた。

あれ、そういえばあの子、私が大学生の時は小学生だったな、もう制服来て中学生になってる―

「なんでドア開けっ放しで、大きい車がいるんだろう」と、こちらを不思議そうに見ていた。

私もその子供を無意味に見つめていた。

警察と母の目を盗み、少し外に出た。

今日の空を眺めた。八王子の森、澄んだ空気。

祖母が死んだ今日は、”普通の日”だった。

それはただの2017年10月10日に過ぎない。

学校も会社もみんなあって、夜勤明けの人は今から帰る。

誰かの誕生日でもある、

10月10日はまぶしいくらいの晴天だった―

 

 

警察も帰って、母は父や兄に連絡していた。

私は一人自室に戻る。

もう祖母の病院のためにセットしていた10時のアラームを解除して、昼頃にアラームをセットし直した。 

私の部屋は小窓から太陽が差し込むようになっていた。

 

渋谷の人ゴミイベントから霊安室、偶然とは言え凄い1日だった。

もしも私が今回のイベントに行こうとしていなかったら?

そもそも看取る事は出来なかった。

私は、この事に対して良かったと思っている。

後悔しないように、と思って東京に帰ってきたら本当に後悔しないように・・・なっていた。

おばあちゃんは私が楽しみにしていたイベントが終わって帰ってくるのを待ってくれていたのだろうか?

イベント、人の誕生日祝った、と思いきや祖母の命日。すげぇ日だった。

 

久々に声にならない声を出しながら泣いたんだ。

24歳にもなって泣くなんて、と書くと情けないが、

人の死に強い人なんて、居ないはずだ―。

 

検死しないといけないのもあるし、葬儀まで時間かかるとのことだったので一度宮崎に帰る事にした。旦那の顔を見た時に泣き崩れないように、どういう話をすればいいのか考えていた。

 

帰りの便を待つ空港で、私は一人ただただ座っていた。

帰りも夕方の便だから、日が少し落ちてきて暖かかった窓際のベンチ。

イベントの後でみんなコスプレの写真とかSNSにアップロードしてくれていて、見てて楽しい、嬉しい。

だけども、

今日、私の祖母は亡くなったのだ。

その事実だけがただただ、日常を蝕んでいた。

夕日は私だけを置き去りにして沈んでいった。

 

祖父が亡くなって12年。あの日もこんな気持ちだっただろうか?と思い返す。

申し訳ないが、まったく違う。

祖母の方が何年も一緒に住んでいたからその分喪失感が大きかった。介護で人の死を見てきた?そんなの比じゃない。 

祖父も祖母も無くなったら次は両親、そんな現実も同時に突き付けられる。

 

 

 

宮崎空港に着いたら、数日ぶりに旦那と出会う。

皮肉にも彼の前では”私には私の日常があるから”と強がることが出来る。

それだけで良いんだ。

旦那からは、「義母の歯の詰め物が取れた」だの、

「なんか嫌な予感がしていた」だの、

「家の異臭が無くなってきた」だの、

後から人の死にこじつけていった。

でもそれは悪い事じゃなかった。

そういうのに少し頼ると、不思議と気持ちが楽になっていったんだ。

 

家に帰って安心からか体の倦怠感が酷くなり、体温を計ると38度。

Destiny2のdiscordでレイドいこう、と誘われたけど、

体調面でダウンしていた。風邪薬を飲んで寝込んだ。

 

何も言わずに寄り添う旦那は誰よりも何よりも優しかったのかもしれない。

 

【10月11日(水)】

それでも仕事があるからなんとか行く。

上司に「葬儀があるから、もしかしたら休むかも」と伝える。

私の上司も物分かりが良いから特に何も言わず

「日程分かったら教えてください」

それくらいが今の私に丁度良かった。

 

家に帰って。

写真をあげたいけど、あげる気分じゃない。

ゲームしたいけど、ゲームできる体調でも気分でもなかった。

その日もずっと寝ていた。

絵を書こうとすると、まったく色が分からなくなっていた。

何をどうすればいいんだろう。

イベントのレポート書いてみたいと思っていたけど、

白と黒以外の色が分からなかった。

あんなに好きだったゲームも絵もまるで出来なくなってる事に気付き、

ようやく「あぁ、私しばらくだめだ」と気付くんだ。

風邪なのもあってあんまり食欲が出なかった。

 

【10月12日(木)】

久々にしっかりゲームやったのはこの日。Destiny2のレイドだった。

火曜日に誘われたけど出来なかったから、取り合えず週に1回だけ報酬の貰えるレイドだけでも消化しようと。

 

みんないつも通りにレイドをこなしていく、

いつも通りだった。誰かがずっとアズールレーンしてたけど

それが日常に感じたお陰か、久々に寝落ちして14時間は寝た。

歯も磨かないで寝たのはたぶん高校生ぶり。

 

【10月13日(金)】

連日Destiny2をやってた。

アイアンバナーでKDA11.0とか叩き出せて嬉しかった。

ゲーム内の自分は絶好調だけど、

現実の自分はまだ本調子ではなかった。

自信には繋がるけどどことなく寂しさを覚えた。

 

・・・・

 

 

1週間、2週間と時間だけが過ぎていった。

 

1週間後には色が分かって絵が少しずつ描けるようになった。

ゲームも出来るようになった。

2週間前にあった出来事を忘れた訳じゃない、

ようやく向き合えるようになったんだろう。

 

 

24歳にして、久々に塞ぎ込んだ日々だったなあ・・・。

また来月の葬儀の後に書くかも。