私とおばあちゃん

 

祖母の死から2ヶ月半が経った。

普段の生活を送っていると、まるで亡くなった事が嘘かのように忘れ去られそうだった。

今日、夢に祖母が出てきた。

今実家で生きているはずの10歳を過ぎた小型犬を抱きかかえながら、こちらを真顔で見つめていた。

 

この記事には少しスピリチュアル・・・?心霊的な話があります。

チラシの裏です。適当に受け止めてください。

実際にあった話を書き留めているだけです。が、苦手な方はブラウザバックしてください。

 

 

 

親愛なる家族の死のストレスというのは思ったよりも大きく、

亡くなって”50日間”は、ずっと上の空で私の生活を蝕んでいた。

stressmountain.jp

この「神戸市こころの健康センター」のサイトでは

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なんと親族の死は離婚よりも高い位置に属しています。

この表で見ると両親と同じ位置付けにされているとは思うけど、それは人それぞれの家庭環境にも寄りますが、私の「祖母の死」はそれくらいのストレスがありました。

 

 

 

私の言う祖母というのは、”母の母” だった。

私の母は一人っ子だった為、自然と”母の母”である、私の祖母は母と同居して孫(私)の面倒を見ることになった。父は婿養子だったが、特に家族間のいざこざもなく家族全員で暮らしていた。

祖母はいわゆる「昔からの考え」は多少はあったものの、朗らかな性格で優しかった。

何故かしつこく、私が絵を描いてる時に

「絵描きは儲からない辞めなさい」

と言ってきていた。しかし、

「お腹すいてないか」「喉乾いてないか」「辛い事はないか」

と聞いてくれるくらいは優しかった。

「あんな優しい祖母がしつこく”絵描きになるのを辞めろ”というのなら、絵描きになるのは辞めよう」と心に決めていた。

 

 

祖父が亡くなったのは、今から13年以上も前、私が小学生の頃だった。

その頃はまだ、「人が亡くなる」事に対してあまり深く想っておらず、

「治療費って高いんだね」とか、子供ながらに思って口にしていた。

亡くなって年月が経つに連れて”もう祖父は居ないんだ”と確認できるようになっていく。

 

そんな思いを心の隅に抱きながら私は小学生から中学生へ昇級した。

自室の棚に、祖父が生前ずっと病院で抱いていた、”ミュウのぬいぐるみ”を置いてあった。母が、きっと「寂しがらないように」と、遺品を私に渡してくれていたのかもしれない。

 

 

中学三年生、私は進路に困っていた。

なんせネトゲ三昧で学校にまったくいかずのまま。

一般教科の勉強をするよりも専門的な事を学ぼう、でも何がしたいのか分からない。

そんな時に、祖母の話を聞いたのだ。

祖母は料理学校に通っていて調理師を目指していた。

子宮の病気だったかで入院してしまって、その夢を断念したのだという。

私自身そこまで料理は嫌いじゃなかったし、代わりに祖母の夢を叶えてあげたいと思い立ち、調理師の専門高校に通い始めた。

実習で難しい事があっても祖母に教わって、難なく卒業していた。

調理実習のテストがまぁ難しくて、初回のテストではクラス2人3人受かればいいなっていうくらいの難易度。受かるまで追試追試追試で、追試がめっちゃ多い。

もちろん包丁捌きも手際も良い方ではなかったから何回も追試に落とされたんだけど、祖母の専攻していた日本料理だけは1発で受かってたのを今でも覚えてる。

大根の皮むきしてる時に切れ味のめっちゃ良い包丁を親指にグッサリやった時は痛かったなぁ。大根がピンク色になった。

 

当時、家族との仲は良くもなく、悪くもなくだった。

高校にあがって私がネトゲ引きこもり生活から回復して、それだけで両親は嬉しそうだった。

兄は私に人生初めての彼氏が出来て安心していたのを覚えてる。

 

高校2年生でまたまた進路に困って。

大学進学を決めて、また少し人生の壁を感じた時だろうか。

部屋の片隅に、”何か”を感じたんだ。

受験勉強でちょっと疲れて、昼寝をしていた平日の午後5時くらい。

いわゆる「逢魔時のような時間帯。

逢魔時 - Wikipedia

夕日が部屋に差し込んでいた。

学校から帰って「昼寝しちゃった」とグラグラ重い頭をあげると、

"ミュウのぬいぐるみ"があったあたりに、微かな青い影があった。

同級生の高橋さんはよく「あそこに霊がいるよ」とか言うもんだったけど、私自身霊は信じていなかった。

しかしその日から異様に体がキツくて、食欲もなかった。

結局受験期だというのもあって、何より不気味で寝る時に怖いというのもあるし、精神的負担をなくすためにお祓いをしてもらう事にしてもらった。

(お祓いするまで別室で寝てた)

お祓い当日。

「どこにいた」というのを住職には教えず、部屋に入れ込んだところ、すぐに"ミュウのぬいぐるみ"があった所に手を指し伸ばしていた。

それを見て、私は少しながらも霊感があるのかもしれない、とは思っていた。

けど科学的根拠のないものは私は嫌いだった。

ただ、お祓いして貰ってる時、異様に体が軽くて涙が止まらなかったのは覚えてます。

 

それからは特に何事もなく過ごしていた。

センター試験の時にインフルエンザかかったとか色々あったけど)

 

大学生になってからの私は結構好き勝手やってた。

付き合ってる人が居ようが他の人にも手を出したり、彼氏が居るにも関わらずホストクラブに寄ってみたり。結局人の付き合いが嫌いになって眠れない日は睡眠導入剤を飲んだ。

平日でも普通に朝帰り、次の日普通に大学。眠い、講義が聞けない。

そんな生活をしていても、「楽しくやれてるならいいよ」と優しい言葉をかけてくれたのは祖母だった。私はたまにあの堕落した生活に疲れて学校を休んで、ネトゲをする…のは中学校を思い出してあまり好きじゃなかったから、よく祖母と話していた。

「祖父がどんな人だったのか」「戦時中の学校の話」「祖母は調理師を諦めたけど、どんな事をしたかったのか」・・・

きっと祖母もそんなに長くないだろうから。

祖父の話はあまり聞けなかったから、後悔がないように語り継ごう、って。

一生懸命聞いていた。

話を聞いているとたまに祖母は涙を流していた。

「〇〇ちゃん(私)の、おじいちゃんは、本当に、いいひとだったんだよ」と。

 

兄はもう働いてしまっていたのもあって、お彼岸の祖父の墓参りは私が積極的に行っていた。祖母と母と私で毎年、八王子花火大会が行われた後くらいの時期に府中まで車で行って花を添えた。

特別な意味はある訳じゃないのに、墓参りは毎年行った。

手を合わせて御骨の前で目を瞑って、最近どうなのか、を考えてはいるけど伝えられるのかも分からないのに。

しかし歳を取るに連れてようやく分かってきた、

「たぶんどっかで見守ってくれてる」。たぶんな・・・!

 

 

堕落した生活から一転、睡眠剤も煙草も辞めた私は立派に大学卒業して働きに出て間もなく結婚するため家を出ることになった。

結婚してから私は本当に好きな事を好きなだけやっていた。

旦那もそれを良しとしてくれていた。

人生で一番楽しく過ごしている期間。

良い職場に巡り合えて、良い趣味を持った。

そんな環境にいたのもあって、結婚してから1年はまったく家に帰らなかった。

しかし一年も経てば落ち着いて、そろそろ家に帰って顔を出そうという余裕が出てくる。

 

今年の8月。

コミケという名の帰省をしたら、祖母のADLががくっと下がっていた。

※ADL→日常生活動作 - Wikipedia

母の支え無しではトイレやお風呂に行けずという状態。

「私は誰でしょう」

私は祖母に問いかける。

「え~っと・・・△△さん?(親戚の名前)」

「違う違う、〇〇〇だよ(私の名前)」

「あ~〇〇ちゃん!」

名前は覚えてくれていた。

 

私はこの帰省時、人生初のコミケに心を奪われて冬コミに参加する事を決意した。

「絵描きになんてなるな」と祖母に言われた事を破って。

 

9月下旬頃

宮崎の今住んでいる家で異変を感じた。

床下から何か異様な臭いが感じていた。

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当初、こんな感じで、原因不明の臭いすぎてなんだろうと思っていた。

かといって本当に事件性があったら困るからtwitterで言うのもアレだと思って、丁度destinyやってた仲間で話してました。

 

10月1日あたり

自分の身に異変が起きた。

体が異様に軽いのと、床下のあの異様な臭いが、自分の口臭から出てくるのだ。

あと、動悸が酷い。鼓動が1つ1つ分かるような感じ。

 

そして旦那が一番に気付く、

「〇〇ちゃんじゃないみたい、なんか変だよ」

と。旦那曰く、”近づいてくるときに気配がない”らしい。怖いなオイ。

その日、運が悪く、旧友となら良かったんだけどもあまり付き合いのない友人とVCで話してDestiny2のナイトフォールに行ってたと思うのだが、これがまったく記憶が無いのだ。

 

”疲れてたのかもしれない”その時はその一言で片づけた。

まさかその日から遠い東京で祖母の体調が悪化したとは知らずに。

euchery.hatenablog.com

 

そうして、祖母は10月10日に亡くなったのだ。

床の臭いは、最後に祖母を抱いた時の体臭をそっくりだった。私は救急車に乗り、祖母を看取った。)

「毎日が誰かの誕生日で誰かの命日」という事を本当に自分の目の当たりにするのは

24歳の大人になりきれない自分には重たすぎた。

ここであまり自分が落ち込んでしまうと誕生日の人に申し訳ない、

かといってこの辛い気持ちを誰かにぶつける訳にもいかない。

話せば話すほどつらくなる、思い出せば思い出すほど辛くなる。

でも何もしてないと、思い出してしまうあの日の病棟の事を。

何かを、しなきゃ。

「楽しい事をしよう、でも楽しい事ってなんだっけ?」

「早く葬式になって欲しい」

その一心でただただ1か月後の葬式までの日数を消化していた。

「過ごす」んじゃない、無理矢理時を過ぎるのを待つかのような感覚。

 

11月3日コミケの合否。

皮肉にも「絵描きになるな」といった祖母は先月亡くなってしまったが、コミケに当選してすぐ入稿した。

 

葬式は11月11日に行った。

前日に東京の実家に帰って、12日には宮崎へトンボ帰りだった。

家に帰ってみると、祖母の部屋が空きっぱなしだった。

祖母の遺品がまだ整理出来て無いどころか、

あの日病院に送る時に「あれじゃないこれじゃない」と書類を出しっぱなしの状態だったところをみると、母は疲れていたんだろう。責める事なんて誰もしない。

 

葬式当日、親戚一同全員に「すみません、お久しぶりなのに全然覚えてなくて」という挨拶。「こんな時にアレですけどご結婚おめでとうございます」「ありがとうございます」―そんなやりとりばっかり。

私は、法要でずっと遺影を持っていた。

親戚がみな、その遺影を見て、

「おばあさん、本当にいい人だった」

と、涙を流す。

その前でどういう顔をすれば良いのかもわからず、

「丁度、この遺影は亡くなる数日前に撮ったみたいで」

「私が帰省した時、丁度だったんですよね」

といった話くらいしかできなかった。

その中でも、

「〇〇ちゃん(私)、看取ってくれたのよね、ありがとう」

この言葉で、少し報われた気がした。

 

法要の数分前、真珠のネックレスの紐が千切れてしまった。

恥ずかしさ抑えてひとつひとつを拾い上げる。

母は「やだ怖い」と言いながら拾うのを手伝っていた。

切れるなら身に着ける最中、家で切れればいいのに、何故こんな時に切れるのか本当に理解しがたい。 

 

まあ、何があったにしろ、もうこれで、大丈夫だろう。

気持ちも清々した。

宮崎の家の床の臭いもすっかり無くなってしまった。

大家的にはきっと「なんだあのクレーマー」と思われたかもしれないが、「良くなりました」という報告をするのも癪だったし、解決した事だし何も言わない事にした。

 

しかし、最後の最後、11月27日あたりから私の体にまた異変が起きるのだ。

動悸が酷くて、眠れない、食べれない、たったの数日間でビックリするほどげっそりと痩せた。43kgくらいあった体重がいきなり39kgくらいまで減るのだ。

私自身まったく原因が分からなかった。

バイクを運転してると、なぜかバイク運転出来ないんじゃないかという気持ち。

普通自動二輪持ってます)

とくに精神的に何も無いし、たまに眠れない日はあったけど2日くらいで治るもので、

そう3日も4日も続かない。

食べ物、ゼリーとかもなかなか入らない。

だから、単純に「何かヤベェ病気にでもなったんじゃないか」と感じたんだ

明日こそ病院いく、明日こそ病院いく…

11月30日の出来事だった。

急に食欲が沸いて、ご飯が食べたくなって、ただひたすらに貪ってた。

旦那が鍋を作ってくれたから、それをむしゃむしゃと。

旦那が「おいしい?」と聞いても、答えられなかった。何故かそれが美味しすぎて。

何も答えないまま食べて続けると

「なんで?なんで答えないの?」

「○○ちゃんじゃないみたいだ」

と。

その時食べた鍋が美味しすぎたのもあるけど、涙が止まらなかった。

腹いっぱいにして、泣き疲れて、別室で横になっていた。

ちょっとしてから、旦那が戸を開けてきて隣に寝そべる。

 

寝そべりながら旦那が言った言葉は、

「たぶん、明日からは大丈夫だよ」

私は言ってる意味が分からなかった。

「だって、俺調べたよ、数えたよ。今日が49日だったから」 

なんで根拠のない事が答えになるのか?

でもその答えにしがみつきたくなることもある。

「そっか」

別にそれが正解じゃなくても、気が良くなるなら正解にしよう。

 

 

次の日からラーメン1杯をいきなり平らげるようになった。

 

 

 

非科学的な事を信じるつもりはないが、こうも何回も重なって起きると

「本当にあるのかな」って思うくらいにはなりました。

 

あんまりでしゃばって伝える内容でもないし、ブログにチラシの裏という感じで書き留めておきました。